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「高原に列車が走った」(1984)

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あらすじ

軽井沢の朝間高校に、宗形順子が音楽教師として赴任してきた。全校生徒を前に挨拶に立った彼女の第一声は、「やるってきめたら、やるっきゃないね!」。生徒達は順子をヤング・ギャルと見くびっていたが、彼女は事あるたびにキョーレツな機知と意表をついた言動でやり返し、次第に人気を集めていった。順子の先生仲間の杉村は同僚の真理と、列車増発運動に励んでいた。信越本線の軽井沢←→小諸間には、普通列車が一日わずか七本というダイヤで、地域の人々や通学の高校生の不便となっているのだ。例えば、一本乗り遅れると二時間以上も待たねばならず、その空白の時間が生徒の非行を生んでいた。順子は「だったら列車を増やせばいい」と言うが、列車増発には国鉄の姿勢、たとえば赤字線のカットや減量経営、労組の問題など多くの障害がある。杉村は長野高教組北佐久支部の定期大会で増発運動を提案し、そこで大島書記長のバックアップを得て以来、奔走していた。非行が売春にまで進んでいると知った順子は、運動に乗り出し、駅頭でビラまきとアジテーションをはじめた。増発運動は他校にも働きかけられ、軽井沢駅員であり組合の書記長・原口の協力を得て色めきたった。ある日、順子はツッパリグループのナツ子が妊娠していることをゴロから打明けられた。ナツ子は子供を生む決心をし、ゴロと二人で新生活をめざし東京へ発っていった。十二月、運動は進展し、御代田の商工会々長・湯川の大きな協力を得、また、彼の要請で小諸商工会の唐津会長も動いてくれることになった。順子のもとにナツ子流産の知らせが届く。順子は悲しみのあまり、一人山に登って泣き叫んだ。翌年正月、ナツ子からの手紙の中に、運動へのカンパ金が入っていた。力の湧いてきた順子はカンパ集めに奔走した。一月三十一日。軽井沢・御代田・小諸の住民を中心に、増発要求の大集会が開かれた。三月二日。国鉄本社での交渉で、労働条件については一切文句を言わない、と力説する原口の語気が功を奏し、翌五十七年六月、新ダイヤが発表された。上下普通列車の六本増発である。十一月十七日。軽井沢駅前広場で祝賀パレード。軽井沢発十六時十五分の増発列車が出発した。順子が乗る400ccバイクが列車と併走した。 【キネマ旬報データベースより】
製作年 1984年
製作国 日本
上映時間 103
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