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「襤褸の旗」(1974)

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病魔に倒れたが見事に克服、再起をかけて自主製作した巨匠・吉村公三郎監督の後期の代表作。明治期に足尾銅山鉱毒事件の闘いに命を賭けた田中正造の凄烈な生涯を描く。純粋でいちずな人間像が監督自身の不屈の決意を示して堂々たる迫力で見せる名編。

あらすじ

東京の北東約百五十キロ、渡良瀬川上流にある足尾銅山は、幕末、廃坑状態にあったが明治9年、資本家・古河市兵衛に買収されてから10年足らずで生産量日本一の大銅山にのし上った。時に日本は帝国主義の道を歩み始め、そのために強引な生産体制を敷いたため、銅が渡良瀬川にタレ流され、沿岸農村は、凄惨な毒と死の荒野と化した。銅山操業停止を求めて近代日本最初の大きな農民の闘いが広まった。その農民たちの先頭に、栃木県選出代議士の田中正造がいた。明治33年2月13日、請願書をふところに、農民の若き代表・一ノ瀬宗八や多々良治平らを先頭に、農民代表一万二千名が、東京に押し出して行った。しかし、利根川を渡る川俣で待ち受ける武装警官、憲兵の大部隊に苛烈な大弾圧を加えられた。−−“川俣の闘い”である。東京では、帝国議会で田中正造が、この事件を取り上げ、激しい鉱毒弾劾質問演説を行った。すでに、足尾鉱毒事件は全国的問題となっていた。“亡国に至るを知らされば即ら亡国の儀につき質問”−−田中正造の肺腑をえぐる追及に対し、総理大臣山県有朋は「質問の趣旨その要領を得ず」と、答弁を拒否した。正造はついに憲政本党脱党、議員を辞職した。そして、正造が嫌っていた社会主義者・幸徳秋水を尋ね、天皇への直訴文執筆を依頼した。こうして、、前代議士の天皇直訴で天下を驚かせた田中正造を、政府は“狂人”扱いにし放免した。以後、正造は毒に犯された波良瀬の大地と農民のもとに帰り、不屈の闘いを続けるが日露戦争のファシズム化の中で停滞を辿らざるを得なかった。すでに宗八の妹・タキと結ばれていた治平も召集されやがて復員。その頃、正造に師事した和三郎はキリスト教者から社会主義者の道へ、同じく正造に師事した女性記者・杉本華子は正造に訣別し、足尾鉱山労働者の闘いの中に入って行き、治平も妻子をおいたまま、その後を追った。明治40年6月29日、谷中村最後の日が来た。足尾鉱毒闘争の高まりの中で、古河市兵衛の妻は入水自殺するが、古河と政府は、洪水防止の一大遊水池開発の名目で、闘いの中心谷中村一帯の壊滅をはかった。なおも踏みとどまる窮迫の農民たちに、目をおおう残酷非情の士地収用法=強制破壊を執行していった……。それから6年後、孤独で巨大な先達・田中正造が息を引きとった。 【キネマ旬報データベースより】
製作年 1974年
製作国 日本
配給 襤褸の旗製作委員会
上映時間 113
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